創業物語

小野寺 健
こんにちは!宮城県栗原市で、「親身に相談に乗ってくれるリフォーム屋さん」として地元で親しまれている、代表の小野寺健(たけし)です。
気仙大工だったじんちゃん(祖父)と地元で初めてのカーテン屋を開いた親父の影響を受けて育ってきました。特に、親父の仕事振りから「人を大切にする」ことを何よりも大事にしています。社員と一緒に力を合わせて、「おだくさ頼んでいがった!」とお客さんによろこんでいただくことが、わたしの何よりのしあわせです。

なぜ、わたしが【信じる】ことを使命と掲げているのか、
そのわけを聴いていただけますか?


親父の口ぐせ、親父の背中

親父の口ぐせ、親父の背中
わたしのじんちゃん(祖父)は、岩手県大船渡市で生まれました。その後、気仙大工として、宮城県栗原市で、中学を卒業した子ども7、8人を丁稚として家に住まわせて働かせる、今で言う工務店を営んでいました。

気仙大工とは、岩手県陸前高田市を発祥とする、東北に古くから伝わる優れた技術を持つ大工集団です。


 じんちゃんは、お客さんから「この町一番の大工だ。」と言われる、腕のいい棟梁でした。


 わたしの親父は高校を出て、東京馬喰町のカーテン問屋で勤めた後、地元栗原市に戻り、24歳の時に、カーテン屋を開業しました。地元で初めてとなるカーテン専門店として、カーテンやじゅうたんを広めました。
小さいころ、親父は現場によく連れていってくれました。そこで、お客さんと話す姿を見て、「おとうさん、楽しそうだなあ。」と強く感じました。
そんな親父が、常々口にしていた言葉があります。
「たげし(健)は、三代目なんだぞ。

「たげし(健)は、三代目なんだぞ。」

わたしは親父が、なんで「たげしは三代目なんだぞ。」というのか、分かりませんでした。「将来、親父の仕事を、おれが継いだら、二代目だろ。なんで、おれが三代目なんだよ?」

その疑問のなぞがとけるのに、30年以上の月日が必要でした。

味方だと信じていた、じんちゃんに裏切られた

わたしには、5歳上の姉と4歳上の姉がいます。二人の姉は、学校の成績が抜群に優秀でした。ところが、わたしは小学校6年間で、通信簿の成績が、「大変よい」、2個だけ。
お袋からは、「なんで、たげしはこんなにでぎねんだべねえ。」とよく言われていました。
それを聴いていた、じんちゃんやばんちゃんは、お袋がいなくなってから、「たげしは、これからよぐなんだもんなあ。」とよく励ましてくれていました。

小学6年のある日、廊下で、じんちゃんが、ばんちゃんに話している声が、たまたま奥の部屋にいたわたしにも聴こえてきたのです。

「なんで、たげしは、あんなにバカなんだべなあ。」

この言葉を聴いたとき、ショックで打ちのめされてしまいました。
「味方だと信じていた、じんちゃんに裏切られた。」

人を信じると、裏切られる。そんな想いが、わたしの中で、強烈に塊となっていきました。そして、自分がだめなんだと思うようになると、まわりへの不信感が強くなり、ちょっとしたことでも気にするようになったのです。


中学に入ると、元々まゆ毛が太かったわたしは、よく「ゲジゲジまゆ毛」と言われるようになりました。自分でもコンプレックスを持っていたことだったので、そこに触れられることで、とても傷つきました。

ある日、隣のクラスの数人が見に来て、「あれ、あいづのまゆ毛、見でみろ!」と笑っている声を聴いて、いたたまれなくなり、翌日学校を休んでしまいました。
父が私の目標になっていました
そんな劣等感の中、「いづが、みでろよ!」という反発心から、人の二倍、三倍努力するようになったのです。
高校卒業後、大学受験に失敗し浪人するとき、過去のわたしを知らない仙台の地の予備校に通うことで、自分が変わる良い機会だと思いました。そして、

「ここから、おれは変わるんだ。過去の自分と決別するんだ!」 そう決意したのです。

おれみでぇな人間は、やっぱ社長になる器じゃねんだよ。

24歳のとき、親父が脳梗塞で倒れました。
その後、ベテランの営業部長、ベテランの職人が立て続けに辞める事態になり、お袋から、「たげし、戻ってきてもらえねべが?」と頭を下げられました。わたしは、入社した会社を5ケ月で辞めて、実家に戻りました。

わたしが実家に戻ってから、親父が教えてくれたことは、二つ。壁紙の採寸の仕方とカーテンの採寸の仕方でした。

26歳のころ、父が後遺症により少しずつ仕事にも支障をきたすようになってきました。
そんなある日、親父を目の前にして、「もういいよ、あんだ(あなた)。おれが社長になっがら。」と言って、社長になったのです。
社長になってまもなくの頃、14歳から19歳ころまで勉強だけでなく、人生の哲学を教えていただいた、塾の先生のところによく相談に行っていました。すると、自分の知らない所でうちの親父も先生のところに相談に行っていたのです。その時、親父が先生に話していたことを、先生が教えてくれました。

「たげしには、何も教えるつもりはない。
これがらはますます厳しい時代になる。そしたら創業者と同じ気持ちにならないと、生き残っていけない。
だがら、私は、たげしには何も教えるつもりはない。
会社をよぐすんのも、わるぐすんのも、たげし次第。そう思ってるんです。」


その言葉を聴いて、「すべて託してくれた」という親父の信頼感と期待感、そして「おれの代で、潰すわけにいかない」というプレッシャーがのしかかってきました。

わたしが社長になってからは、親父は、一切会社に来なくなりました。当時、会社の売上は最悪な状況です。それに加えて、ベテラン社員が辞めたため、誰も教えてくれる人がいません。さらに、親父がリタイアしたため、会社を一身に背負ってきたお袋も、あせる気持ちから怒ってばかり。
「営業部長のAさんはできたのに、なんで、あんだはできないの。」
怒鳴りあってばかりの、ピリピリとした職場が続きました。

そんなある日、20年以上勤めている女性社員から言われた一言が、忘れられません。

「社長って、ドンっと座っているもんじゃないんですか。
〇〇の社長なんか、大声張り上げたりしませんよ。そんなの社長じゃないですよ。」
社員旅行での一コマ
わたしはなにも言えず、気持ちが落ち込んでいきました。
「おれみでぇな人間は、やっぱ社長になる器じゃねんだよ。」
それと同時に、言われぬ憤りのような感情もわいてきました。

「そんなごと言ったって、おれだって死にでぇぐれぇ辛ぇのに、 なんでこごまで言われねげねえっけ。 なによりも、比較されんのが、一番嫌いなんだよ。」

それからは、社長っていうのは、社員に弱みを見せてはいけない、感情を表に出してはいけない、と固く想うようになり、能面のような態度を取るようになったのです。

「おれって、一人じゃない」

2011年の東日本大震災後、2012年から仕事が少しずつ増えていきました。会社も黒字化して、会社の組織化にも取り組み始めました。先が見えない暗いトンネルの中で、苦しんでいたのが、少し明かりが見え始めたころです。

それまでは、会社がつぶれないように必死で走っていました。2013年に、これから社員にも喜んでもらえるような会社にするために、会社の経営指針を明確にする勉強会、「経営指針を創る会」に入会しました。

赤字が続き、給与をカットしなければならない状況でもやめないでついてきてくれた社員が2人います。その2人とこれから採用していく社員のためにも、将来の明確な方向性を出していかなければ、と考えたのです。

どういう自分になりたいのか?
どういう人生を送りたいのか?

という視点から、自分および会社を俯瞰(ふかん)していきました。

そんな矢先に、施設に入っていた親父がなくなりました。
それまで、親父のことを深く考えたことはありませんでした。しかし親父の死をキッカケに、親父はなにを大切にしてきたのか?なにを考えて経営をしていたのか?そんなことを想像してみるようになりました。

そこで見えてきたのは、 親父の「人を信じ抜く」というあり方です。
わたしのことも、全面的に信頼して、任せてくれました。なにより、なにかをしようと思ったとき、親父は、わたしの考えを否定することはありませんでした。

「たげしがそう思うんだったら、やればいんでねえが。」
いつもそう言って、わたしの背中を押してくれたのです。


小さなころ、親父に連れられて行ったお客さんのところで、楽しそうに会話することを思い出してみたとき見えてきたのは、お客さんを受け入れ信じ抜く姿でした。
そこからわかったことは、親父が大切にしてきたものは、「人を大切にする」ということです。

ここから、会社の理念のひとつ
【私達は、創意と共感で、「絆」を育む心豊かな暮らしを提供します。】
という言葉が生まれました。

経営指針を創る会で勉強を始めてから1ケ月半、ほとんど会社に行かず、経営指針書を創ることだけに専念しました。それでも、ありがたいことに、私が居ない間ずっと、残った社員だけで会社を回してくれていました。

2013年8月2日、翌日経営指針書を会のメンバーに発表するために最後の資料の準備をしていました。帰り際、ある社員が、「社長、何時に出来上がりますか?」と訊いてきたので、「たぶん、徹夜ですよ。」と答えました。
8月3日、発表会当日の朝5時ころに、資料のまとめが終わり、製本作業にかかろうとしていたら、社員が会社に来て、「社長、手伝いますよ。」と言って、手伝ってくれたのです。
わたしは強く、自分の愚かさに気づきました。

「おれは一人でやってんだ、って勘違いしてだ。
おれって、ほんと最悪だよな。社員のおかげで成り立ってんだよな。」

その時、「おれって、一人じゃない。」という暖かいものがこみ上げてきました。

そして経営指針書を創る中で、2013年から、今までの内装の仕事だけではなく、これまでも少しはやっていたリフォームの仕事をもうひとつの柱にすることにしました。
じんちゃんがやっていた、建築の仕事です。

ある時期から内装の仕事が下請け仕事に変わり、直接、エンドユーザーと接触する機会がなくなっていました。エンドユーザーから、直接、「ありがとう。」の声をいただけることで、やりがいも増すのではないか?そんな想いから、リフォームの仕事をもうひとつの柱にしようと決めました。
本当の仲間が出来ました
また、心の奥底では、「この町一番の大工だ」と言われていた、じんちゃんのような仕事をしたいと、常々思っていたことが、リフォームを選んだもう一つの理由でもありました。

じんちゃんは、大工(工務店)。
親父は、カーテン屋。
わたしは、今、新築・リフォームとカーテン屋。


その時に、親父が常々口にしていた、
「たげしは、三代目なんだぞ。」
この言葉がやっと腑に落ちたのです。

わたし、小野寺健の使命

2013年に経営指針書を創る中で、社員が朝5時に来て全員で手伝ってくれた経験から、自分の中である気持ちの変化がありました。
それは、
「もっと、自分を出して、本音を言ってもいいのがもな。
それに、もっと社員を信じてもいんでねぇのが。」 そういう想いです。

経営指針書を創りながら、今まで、社員を道具のように考え、「おれのおかげで、成り立ってんだ。」と考えていた自分に、薄々気づきつつありました。

社長だから、弱みを見せちゃいけないと能面のように接していたところから、社員によろこんでもらう会社にしたい、という想いがすこしずつ通じていたんだと思います。
わたしが社員に心を開いたから、社員もわたしの方に気持ちを向けてくれるようになったんだということに気づきました。 26歳で社長になったので、無理して自分を大きく見せようとしていました。本当は右も左もわからず、助けて欲しいのに、「おれがやりますから。」と背伸びする自分がいました。

「助けてください。手伝ってください。協力してください。」と言えなかったのです。

そうなんです。わたしが至らなかったのは、人を信じて、心を開く、ということなんです。
自分一人でやるのではなく、仲間と一緒にやるという姿勢だったのです。


そこから、 わたしの使命を、【信じる】ということに掲げました。

社員を信じるようになったことで、「一人じゃないんだ。」と想えるようになり、気持ちが楽になりました。今までは、「おれに近づくなよ。」という雰囲気だったのが、社員からも「社長、変わったね。」という声が聴こえるようになったのです。

そして、少しずつですが、会社に笑顔と会話が増えていきました。わたし自身、「なんか、こういう雰囲気、いいな。」と感じ、そして妻からも「会社の雰囲気、変わったよね。」と言われ、うれしくなりました。

社員だけでなくお客さんにも、自分のことをオープンに話すようになって、新しく立ち上げたリフォームの売上が上がっただけでなく、お客様のよろこびの声も少しずつ増えていきました。

「初めて見たときの、お客さんのために親身になって考えてくれる雰囲気。 この段階で、小野寺さんに7割決めようと思った。実際、何回も足を運んでもらい、わかりやすく話してくれたし、なによりもこちらが話しやすく、 とても親近感を感じました。」

「余すところなく詳しく説明してくれるし、誠実さが伝わった。
あそこまで詳しくさらけ出してくれると、それだけで安心。」

「全部取り替えるのかと思ったら、今までのものを残し、いいものを作ってくれた。
小野寺さんの仕事を見て、最高のリフォームというのは、必要最小限で、最大の効果を出してくれることだと、今回実感しました。」

このような喜びの声をいただけるようになると、改めて自分だけでなく、社員と一緒にもっともっと共有していきたいと感じました。
そしてお客様の声を聴く中で、リフォーム業者に対して不安を抱かれているなどでお困りの方に、わたしはお役に立ちたいと強く想うようになりました。
「言われたことしか見積もりしてくれないので、どこに頼んでいいのか、困っていた。」
「こちらのイメージ通り伝わるか、心配だった。お金をかけるだけのことができるか心配で、リフォームに 踏み切れなかった。」
「背広着て、営業マンという感じだと、こっちが構えて、引いてしまう。」

悩みや困りごとを誰かに頼って、相談できずに困っている方のお話を親身になって聴かせていただき、同時に、わたし自身のことや仕事のことも余すところなくお話しすることが、親父から教えてもらった、「人を大切にする」ことだと考えています。

そのために、 人を信じ、人に心を開くことを、いつも使命として掲げ、生きていきたいと思っています。
親父の会社を継いでから、いつも、「親父の期待に応えないといけない。会社を潰しちゃいけない。」そのような想いで必死に頑張ってきました。

これからは、社員という仲間とともに、そろそろ、自分のために生きてってもいいのかも、そう思えるようになりました。 親父がリタイアした後、人脈をつくるためにいろんな会に入って、仕事が来るようにこれまで頑張ってきてくれたお袋にも、もう楽にしていんだよ、と伝えたいと思っています。
ずっと信じてくれてありがとう